泉井蘭はなんてことない、ただの不良だった。 どこの街にもいそうな、成績不良素行不良の暴力しか知らない馬鹿な餓鬼だった。 世界に迎合できず、ちっぽけな仲間内でしか威張れない。 家に帰れば壁をヤニで汚し、アルコール臭を染み込ませ、時には家族にさえ殴りかかる。 そんな、怯むことを知らないごく一般の不良、であればよかったと思う。 「ねえ、お兄ちゃん」 まだ小学生の弟が、小首を傾げながら笑顔で近づいてくる。 それが、蘭はなんだか気味が悪かった。 極端に媚を売らている訳ではない。 自分が不良だからその爽やかさに無縁だという訳でもない。 成績優秀品行方正、自分とは全く違う四字熟語が当てはまるであろうその弟の笑顔は、清すぎたのだ。 魔の者が天の者を見て浄化されてしまう、というよりは、その逆。 弟より遥かに悪に慣れているはずの自分の方が、まだ清いような気さえする。 そうした訳で、蘭は弟に気圧されていた。 無駄に高いプライドで、そんな事実には気付いていないふりをしているが。 煙草の煙を吹きかけてやり、蘭は鬱陶しいという感情を露わにして弟を睨み付ける。 「んだよ。ガキはお勉強でもしてろ」 「違うよう。僕、お兄ちゃんと、ゲームしようと思って」 「あ?」 ゲーム? 『優等生』の青葉には些か不釣り合いな言葉に、蘭は違和感を覚えた。 「お父さんが買ってくれたんだ」 そんな兄の心を読んだのか、青葉は笑顔で答えた。 まあ、テストで100点取ったとかそんなもんか。 蘭は暫しどうしようかと迷ったが、弟の見せたディスクが話題作だったので相手をすることにした。 よくある格闘ゲーム。 結果は言うまでもなく、蘭の圧勝だった。 「うわあ、お兄ちゃん強いよ」 「ハッ、年季が違うんだよ。年季が」 ぷくりと頬を膨らませる弟を横目に、蘭は缶ビールをあおる。 酒でも飲まなきゃガキの相手なんてやれるかよ、とぼやいて。 青葉はしばらくそんな兄の姿を眺めていたが、ふと手を叩いて名案とばかりに言った。 「あ!じゃあ、どうやったらお兄ちゃんみたいに強くなれるか教えてよ!」 僕、いつもみんなの間でも負けてばっかりなんだ。 目を輝かせる弟を、普段の蘭なら切り捨てるところだった。 だが、酒が回り気分が良く、尊敬されて悪い気がしていない今の蘭は、断らなかった。 「まあ、俺には何回やっても敵わねぇだろうがな」 「ええー。俺、お兄ちゃんよりも絶対強いからね!」 故に、青葉の言動にも何の違和感も感じることができなかった。 「ほら、やっぱり勝てねぇだろ」 「もう一回しようよ!次は絶対、僕……」 「めんどくせぇ。とりあえず酒飲ませろ」 結局、結果は変わらず。 いい加減飽きてきた蘭は、二本目の缶ビールを開けて喉を潤す。 真面目にゲームは1時間だのなんだの、決められた時間しかやってないような弟がゲームセンターに入り浸っている自分に勝てるはずがないのだ。 ごくりごくりと喉を伝う液体の苦みを、実は美味しいとは思っていない。 なんとなくで仲間と一緒に飲んでから、そのままなんとなくで飲み続けている。 青葉は不満げな顔をしてそんな兄をじっと見つめていた。 「何見てんだよ」 不審に思って聞くと、弟はすっと蘭を指さした。 「ねえ、それ、俺にちょうだい」 その言葉から、蘭ではなく手元の液体を指しているのだと気がつく。 半分ほど残っているそれをちゃぷんと鳴らすと、もの欲しそうな目が向けられる。 「ばーか。誰がやるかよ」 変に酔わせて親父に殴られるのはごめんだったし、弟に酒をやるほど蘭の心は広くない。 見せびらかすように口に運んでやる。 「ちょうだいってば」 蘭の腕をちいさなてのひらが揺さぶる。 なんだか鬱陶しく、殴ってやろうかと思った時、蘭は倒れた。 否、押し倒された。 からん、という音の後、飲みかけていたビールの缶から黄色い液体が床に流れる。 口に含んでいたビールが気管に入り、むせ返る。 涙目になり曇った蘭の視界に映るぼやけた弟。 兄に覆い被さるようにしている青葉は、降りもせずに近づいてくる。 近づくにつれ、顔がはっきりと見えてくる。 こいつ、笑って……、 そう認識した時、青葉は蘭の首筋に唇を押しつけ、ぺろりと舐めた。 「……っ!?」 ぞくりと、背中に何かが走った気がした。 蘭はむせるのも忘れて、見開いた目で青葉を見た。 「ああ、やっぱりあんまり美味しくないんだね」 もはや何のことを言っているのかすら分からない。 目の前の存在が理解できないことに混乱して、いつものプライドも形無し。 弟はそんな兄をくすりと笑って、先程舐めた首筋を撫でた。 「いつもマズそうだったから、俺、味を知りたかったんだ」 その言葉に、やっとビールの話だと認識する。 「ああ、こぼれちゃったんだ」 何も言えない兄の首からやっと離れ、今気付いたかのように溢れたビールを眺める。 すぐに顔を戻し、青葉は口を開閉させる蘭の顔を見る。 そして、いつものように小首を傾げ、眉をハの字にして。 「ごめん、ね?」 困ったような笑顔。 蘭は衝動的に、弟を殴った。 殴って、蹴って、殴って、踏みつけて、叩いて、 結局、父親が蘭を無理矢理殴って止めるまでそれは終わらなかった。 いっさい抵抗しない弟を、蘭はいつまでも睨み付けていた。 その次の日。蘭が学校から帰ると、リビングで友人達とゲームをする弟の声が聞こえてきた。 「まったく、また青葉が全勝かよー」 「お前負けたことねぇだろ」 「そんなことないって」 軽くあしらうような声が耳に届く。 また。なんてことないような言葉に、自室へと歩く足が止まる。 『僕、いつもみんなの間でも負けてばっかりなんだ。』 昨日、拗ねたように言ったそれが頭の中でぐるぐると再生される。 「俺だって、兄貴には負けるんだよ」 首筋が、ちくりと痛んだような気がした。 |