いつまでもあの笑い声がフライパンのコゲのようにこびりついているくせに、頭の中に浮かぶのは一瞬のはずの泣き顔だった。 「ニャー」 「……へ、うわっ」 足音も、馬鹿みたいな笑い声すらも、聞こえなくなったのに。 『ハッハッハッハッ』 犬の呼吸みたいな、変な笑い声が僕の頭を支配して動けなかった。 「なんだ猫か、びっくりした……」 どれくらい時間が経ったのか分からないが、我に返ったのは猫の鳴き声が耳に届いてから。 それまで自分が何を考えていたのか分からなくて、ただ、目に浮かぶのはあの人のことだけ。 ……なんで、泣いてたんだろう。 最初は、馬鹿みたいに笑ってたからいつものようにちょっと酷いことでも言おうかと思ったんだ。 でも太子の顔を見たら、何にも言えなくて。ただ走り去る姿を呆然と眺めることしかできなかった。 待ってください、とか、太子、とか。名前を呼ぶことも、単純な言葉を発することもできなくて。 いつもみたいに、僕にツッコまれて流す涙なんかとは違うなんてことは、一瞬でも理解できた。 僕をじっと見つめて、それはどこか恨みのような、後悔のようなものがあるような気がした。とにかく、何かが悲しいのだと思った。とてつもなく、悲しいのだと。 そのくせ、声をかけられなかったのは、なんでだ? たとえ身分が下であっても、太子に尊敬の気持ちなんか欠片も抱いてなくても、それでも。 あんなところにいたら、普通は声をかけるべきじゃないのか。 ましてや、僕は、よく太子と話す人物だ(と思う)。気軽に声だってかけられるのだ。 ぐるぐると頭の中が動いているような、誰かに揺さぶられているような感じがする。 考えは錯綜するのに、まとまらない。ええと、太子が、涙を、そう、涙を。 「どうしたら、いいんだろう……」 「うみゃ?」 猫だけが僕に付き合ってくれる。 混乱する頭で猫を見つめると、不安そうに小首を傾げた。なんか、今の僕みたいだ。困ってる姿を見て少し冷静になれた。 軽く顎を撫でてやると、ごろごろと音を出して目を細めた。 太子も、こんな風に誰かに慰めてもらえるんだろうか。 ……あれ、なんで僕は、太子のことをこんなに真剣に考えているんだろう。 ハッとする。 だって僕は、五位で、小野妹子で、ノースリーブで、ツナとか言われて、いっつもいっつも太子には仕事を邪魔されるし、うざいし、泣いてたからって、こんなに真面目に、友達でも、ましてや恋人でもない、のに……? ………あ 「こい、びと……?」 慌てて首を振る。 自分の中の発想力に驚く。聖徳太子と恋人だなんて、恐れ多い以前に嫌だ。絶対嫌だ! あんなカレーくさいどうでもいい上司、僕といなけりゃ今頃隋で野垂れ死んでただろうおっさん…… 野垂れ死ぬ? 「そうだ、太子は僕がいなきゃダメなんだ……僕が世話してやらなきゃ、ただのダメ人間じゃないか!」 勢いよく立ち上がって叫んだから、驚いた猫が逃げていった。 でも、もう僕はそんなことを気にもとめずにブランコの場所へと走り出していた。 「……妹子の馬鹿……」 「誰が馬鹿ですかアホ太子」 「い、妹子!」 なんて思った通りの場所にいる人なんだ。 ブランコに揺られていた目の腫れた太子は、僕を見て立ち上がった。 「このイカが。子供でもないくせに何泣いてるんですか」 「い、イカって言ったなコノヤロー!」 「わっ」 太子がこっちに向かって突進した。突然のことに避けられず、思わず受け止めてしまう。 すぐに突き放そうとしたら、太子が僕の胸でまた泣き始めた。 「わ、わたしの、妹子にもらった、あの石がなくなったんだよぉ!大事に、しまってたのに……!」 馬みたいな、犬みたいな、とにかく動物みたいにおいおいと泣き続ける太子。 思いも寄らぬその原因は僕で、適当にあげたお土産で。 そんなものを持ち続けていたことも知らなかったし、泣くほど大切にしていたことも知らなかった。 「……はは、」 「な、なんだよ、笑うなよ妹子!」 「あはははははは!」 「ば、バカヤロー!私は真剣にだな……!」 真っ赤になってぷりぷり怒り出す太子。なんだ。あんな真剣に悩むことなんかなかった。ただ追いかければ良かったんだ。 涙が出るほど笑って、お腹が痛くなってやめた。 「馬鹿太子。石なんかで泣かないでください。ほんっとにアンタは僕がいないとダメですね」 「わ、私は大事に取っておいたんだぞ!ダメじゃないわい!」 「あの瓦礫の中よく持ってましたね……」 呆れると、憤慨した太子は僕に言った。 「だって、妹子にもらったものなんだぞ!」 口は開いたまま、思考回路はまた停止。 言葉の意味に気がついてふたり頬が熱くなるのは、時間の問題。 |