さらさらさら、筆を滑らせる。

仕事は好き、という訳じゃあない。今やっている書類は量こそ多いもののそう辛い仕事ではないし、外交より苦手ではない。真っ白な紙に滲んでいく黒をきれいだと思うが、それを楽しむときではないことを私はよく知っている。今は文字や色ではなく、文を、内容を見なければ。硯の中はこれ以上ないだろうというくらい黒く、墨と紙との相性は良い。頭の片隅で、そんなとりとめのないことを考える。特に意味はない。私の書ひとつで、この国は変わる。別にだからといってどうすることもない。この国を良くするために、政治をする。ただそれだけのことだ。そろそろ墨がない。墨汁を硯の中に入れる。黒い液体がこぼれ落ちる様を見ていると、何も考えないということができる。ただ硯の中に、墨汁が入るだけの話。ゆっくりとなめらかに、たまっていくだけの話。筆を墨に浸し、たっぷりと染み込んでいくのを確認する。再び、書き始める。しばらく、国のことを考える。倭国はこれからどうしたらいいのだろうか。隋とはどう接していけばいいのだろうか。他の国とはどうする。あれの位は上げた方がいいだろうか。あの人は家柄にものを言わせる傾向があるな。今、国民は苦しくないのだろうか。東の方は幾分か荒れていると聞いた。それでまとまるのだろうか。書いているあいだ、実に様々な事を考えた。政治。やっぱり位は上げないままの方がいいや、と思ったときに筆が止まった。割と長いものだったが、終わったのだ。持ち上げて一通り見直す。


「っ……けほ…かはっ!」

机に書を置いた途端、唾が喉に入って咳き込んだ。なかなか止まらず、未だ冷たくてぬるい液体の感覚残る喉を押さえながら茶を探す。やっと手が茶を掴み、若干零しながら流し込む。二、三回の後、咳は止まった。それにも関わらず、喉の奥にまだ苦しさがある。お茶はこの部屋にもうない。唾を飲み込み、なんとか耐える。まるで喉が抉られてしまったかのようだ。目に涙が溜まっているのに気付き、服の端でぬぐう。何故か、後から胸が少し苦しくなってきた。深呼吸をして、呼吸を整える。
書に紐を巻く。濃く暗い緑に明るい橙はよく合っていた。立ち上がると、背筋が寒くなり身震いした。

「私もそろそろ閻魔さんの元に行く頃ってことかなあ」

なんとなく呟いて、くすりと笑った。馬子さんにこれを渡す前に、妹子の顔を見てこよう。
痛む喉は、きっと妹子がいないせいだ。










06.11.19(真面目な太子)