【幸せになれるピンクの粉】 「あーにき」 「何だ」 ちりんと鳴る風鈴の音と共に流れる汗で暑さを感じる、夏。 その日は、いつも通り自室で書類に向かって仕事をしていた。 昨日とも一昨日とも何ら変わらない、いつも通り。 弟が汚れた白衣で後ろから抱きついてくるのも、その腕の冷たさが首に当たるのも、いつも通りで。 「冷たい…」 だから、油断していた。 冷たさに気を抜いていた俺は、いつものようにゴーグルが首に当たっていないことにも、弟がマスクで完全防備をして粉の入った瓶を持っていたことにも、全く気付いていなかったんだ。 「えい」 そして間抜けな声と共に、俺の視界はピンクになった。 きらきらと目の前が桃色に光る。 きれいだな、なんて思ったのはほんの一瞬。 すぐにこれは危険だと判断してなるべくこの粉を口に入れないように手で覆う。 だが、慌てて口を塞いでももう遅い。口内に広がる甘ったるい味が、俺は既に大量の粉を吸い込んでいることを物語っていた。 「…ヤマタ」 舞い散る粉の大半が床に落ちた。 もう口を開いてもいいだろうと判断した俺は、地を這うような低い声音で弟の名を呼ぶ。 振り向くとそこには、マスクを被った金髪。 薄汚れた白衣は、ピンクに染まっていて。 同じくもう粉を吸い込む危険はないと思ったのだろうか。 ゆっくりと脱がされたマスクの下から現れた唇は、俺の想像と寸分違わないにやにや笑いで弧を描いていた。 俺の弟である、蛇田ヤマタ。 この憎らしい笑みを浮かべる奴には、ある趣味兼仕事がある。 薬作り。 怪我や病気を治すものからわざわざ人をおかしくするものまで、材料さえあれば何でも作る。 それだけではない。 自分で新しい薬を作ることもある。 ……こと薬に関してはプロフェッショナル。だが、如何せん性格が悪い。 そんな奴の持ってくる粉といえば、何かしら薬であることに違いない。 そのことをよく知っている俺は、にやにや笑いを浮かべるヤマタの襟を掴んだ。 「これは何の真似だ」 眉を寄せて言うが、苛つくような弟の笑みは崩れない。 そのまま何も答えないことに痺れをきらし、俺は直接首を掴む。 「わ、兄貴、これは苦しっ…」 「なめるなよ」 徐々にと力を増していくと、途端に表情を変えて焦りだす。わざと苦しくなるような絞め方をしていることに、気付いてはいるらしい。 そんなヤマタに、俺はゆっくりと聞いてやる。 「このクスリは何だ?俺をもっと怒らせる前に、さっさと答えろ」 耳元での低い声に、というより首への圧力に耐えかねたのだろう。 じたばたと腕を動かし、ヤマタは降参の意を示した。 「さすが次期組長…これ跡ついてない?」 「見せる相手もいないだろうが」 少し、とは言えない程度に赤い首を撫でて、ヤマタは咳き込みながら恨めしげに俺を見ている。 俺こと蛇田ミズチは蛇田組、いわゆるヤクザの次期組長だ。 苗字を見れば明らかだが、現組長は俺とヤマタの父。蛇田は今時珍しい世襲制だ。 家族だからということもあるが、そうした職業柄、ヤマタの薬は大きな収入源であるので大抵のことには目をつぶってやっていたのだが。 それを兄に使うとなれば、どうあっても見過ごす訳にはいかない。 ましてやもう、使われた後だ。 効果が出る前に吐かせてできるだけの対処をしなければ。 眉間に皺を作ると、ヤマタは引きつった笑みを浮かべた。 「で?」 「こ、この間……おっさんが来たときに持ってきただろ、これ」 俺の放つ冷たい空気にびくびくしながら畳の隙間まで桃色に染めている粉を指す。 そんなに怯えるなら、やらなきゃいいのに。 そう思いつつ見る桃色。確かに、以前見たような気がしなくもない。 おっさんというのは、外から製薬を依頼しに来た、とある企業の研究員のことだ。確かあのときはまだ小学生の妹がいたから、そんな場所にクスリを持ち込むなと叱った覚えがある。 「ほら、依存症も臓器への影響も、人体への影響が全くないって言っただろ?」 焦ったように言うそれには、確かに覚えがある。 だから妹含め俺や家の者には持ち込んでも害はないと言われた。 「じゃあ」 「大丈夫!俺が兄貴を薬中になんてする訳ないだろ」 その割には完全に計画された行動だったように見えたが。 ひとまず体への影響がないと知り、俺は安心する。 だが、何かがひっかかる。 あのとき俺が、じゃあそれは何だ?と聞いたとき、こいつは何かを言っていた気がする。 まあ、たいしたことではないか。 「いい歳なんだから、遊ぶのもいい加減にしろよ」 「へーい」 立ち上がって服についた粉を払いながら軽く説教すると、全く懲りてない様子の返事をされた。 こいつは……。 もうちょっと言ってやるかと思って口を開くと、俺は膝から崩れ落ちた。 「な……」 思い出した。 この前こいつが、この忌まわしい粉薬について言った言葉。 『……じゃあ、それは何なんだ?』 『ん……俺は、兄貴には使ってみたいかも』 目の前で俺を支える腕の主と全く同じ、にまにまとした笑み。 「ダメだよ兄貴、次期組長が簡単に人の言うこと信用しちゃあ」 こいつの薬で痛い目なんて、学生時代からずっと見てきたのに。 油断していた自分に腹を立てながら、目の前の弟を睨み付けた。 「おい、そろそろ…!?」 「お、効いた効いた。やっぱり完全に効果が出るのは、きっちり3分後だな」 この薬がただ動けなくなるだけだのものだと思っていた俺は、どうにか解放するように言おうとした。 だが、なぜか俺の頬は憎き弟にすり寄っていて。 俺の言うことを聞かない体に、ひどく焦る。 思い当たる原因は、一つしかない。 「驚いた?それが薬の作用」 改めて弟への憎さが増した。 いや、なんて薬を作っているんだ。 しかしこれは依頼で作ったものだ。脳裏に浮かんだヤマタが「おっさん」と呼ぶ初老の男性を恨んだ。 「惚れ薬なんだ、それ」 「ほれっ……!」 絶句する。その色は、確かにその作用を表している。 嬉しそうにすり寄る(俺が意図してではない、断じて)俺を抱きしめながら、ヤマタは囁いた。 もうマスクは脱ぎ捨てられていて、ゴーグルもいつものように首にかけられている。 俺の視界にはその笑みと、ピンクの白衣しか入ってこない。 「でもね、相手によって効果が違って」 そこで言葉を止めて、ヤマタの顔は俺の真正面に。 少し垂れた爬虫類のような瞳に、俺だけが映っている。 そのことに何故か俺の心臓はどくり、と脈打った。 何故だろう。さっきから、体温も脈拍も異常に上がっている気がする。 もしかしてこれも、薬の効果なんだろうか。 そう考えを巡らしている俺の頬をさらりと撫でて、ヤマタは僅かに口を開く。 覗いたすこし長くて赤い舌に目を奪われて思わず口を開けてしまうと、絡みつくような口づけをされた。 歯の裏側をゆっくりとゆっくりとなぞられて、戸惑うくらい唾液を送り込まれて。 熱に浮かされたように熱い俺の口内で、たしかにそこを蹂躙していくその長い舌。 押し戻そうと抵抗してみたが、弱々しいそれは逆に弟を興奮させてしまったらしく。 「んっ…ふぅ…」 「はぁ…」 既に俺は、漏れる吐息が俺のなのかヤマタのなのかということすら分からなくなっていた。 優しく包まれたり、形を確かめるように奥まで触られたり。 まるでそこだけ別の世界へ飛んでしまったかのような感覚。 散々ねぶられると同時に送られた唾液が、口の中に収まりきらずに溢れる。 つうっと垂れたそれが顎に届く前に、掬われる。 今、ヤマタのあの白い手に、俺の唾液がかかっているのか。 なんてことを想像して、自分がかあっと熱くなるのを感じた。 思わず、ヤマタの白衣を掴んでしまう。 そんな俺に、こちらに集中しろとばかりにヤマタは熱い舌を絡めて。 頭の中が、真っ白になる。 ただ熱くて、とろけそうで。 「……あ…」 俺の目がとろんとしてきた頃、やっと唇は離された。 長い長いそれのせいで、頭のどこかで寂しいと感じてしまう。 もはや抵抗なんてことは考えることすらできなくなった俺に、ヤマタはにやりと笑って。 俺は、何だかんだこの笑顔に、弱い。 「既に惚れてる奴が相手だと、媚薬になるんだ」 いつものようにそれに怒ることもできず、今度は自分からキスをした。 ☆☆☆ 「海に沈めてやる」 「ごめんごめん」 それから数時間。おそらく、日付も変わったと思う。 俺は痛む腰を上げることもできず、ヤマタに運ばれたベッドの上で掠れた声の恨み言。 「でも兄貴、あの薬は普通あーんなエロいことにならないんだぜ?」 「は?」 未だにやにやとしている顔に嫌気がさす。 意味が分からない。お前が、媚薬だって言ってたくせに。 「普通の恋人ならただ抱きつくとかキスするとかだけなんだけど、あんなに乱れちゃったのは兄貴がそれだけ俺のことをだあいすきってこと」 「そんな訳あるか!こんな絶倫にっ…」 変なことを言い出したので、たまらず怒る。 とはいえ体勢は寝ながらなので、対して怖くもないんだろうが。 「最近の兄貴はヤってる時だけが可愛いんだよなあ…」 悲しげに呟かれるが、正直そんなもの知ったことではない。 それに次期組長が可愛かったら終わりだろ、どう考えても。 「……お前だって、昔だけが可愛かった」 「ああ、あの頃は俺のことを可愛いと思ってる兄貴が可愛かったなあ…」 「お前は、そんな時から俺のことを…!」 反論のつもりの言葉に返された言葉に戦慄する。 生まれたままの姿で隣にいる男は、いったいどこまで俺を恐怖させるんだ。 腰が痛すぎて距離を開けないのが辛い。 「でも」 「ん?」 何かを言い始めたので、顔だけ向けてやる。 「今の兄貴だって、俺は十分可愛いって思ってるよ」 爬虫類の目が、俺を捉えて。 冗談ではないと分かるその眼差しに、どきりとした。 だって。 「俺だって…」 続けようとした言葉は、暗い部屋に吸い込まれていく。 無理だ。 にたにたした笑みの弟に、耐えられなくなった。 「んな恥ずかしいこと、言えるか!」 「え〜、恥ずかしいことだったの?」 「ち、ちが…や、うぅ……何でもない!馬鹿!」 きっと真っ赤になっているであろう顔を見られないために、布団を頭まで被る。 まるで子供みたいな拗ね方をしたけど、この時の俺にはそんなことは気にならなかった。 27にもなった男が、2つしか違わない弟に翻弄されて。 それでもこいつに甘いのは。 「……かーわいい」 布団越しに俺の頭を撫でるその声が、どこか優しいから。 まあ、いいか。なんて。 また今日もいつも通り、俺はこいつに甘いまま。 |